フェルデンクライスメソッド

本番(リサイタル4)

本番(リサイタル4)

スケジュールの詰まっているはずの本番は、思いのほかゆっくりと進んで行きました。楽屋に控えているうちは全く見えなかったお客様のお顔をステージから初めて見る感覚は、喜びに心がうち震えるようでした。久しぶりにお目にかかる方とは、ものすごくお話がしたい!という気持ちが溢れて、その方に語りかけるように歌っている自分がいました・・・。

フェルデンのレッスンが終わったとき、大勢の中にいる自分の個としての存在を強く感じることがあります。周りに人は沢山いるのに、自分は一人でどっしりと立っている感覚とでも表現できるでしょうか。人前で歌う感じはその感覚と似ているようにいつも私は感じるのです。

皆さんは沢山の人の前で自分一人で歌うことを経験されたことがあるでしょうか。それはある種非日常的なこと。人前に出れば一挙手一投足を見られ、おまけに出した声全てを聴かれることになります。一体どうやったら一人で人前で歌を歌えるの?と聞かれることがよくあります。

幼いころ、私は人前で歌うことが出来ませんでした。今でも覚えているのは小学校の音楽の試験。一人づつ前に出てピアノ伴奏を弾く先生の横で歌を歌います。私の番になると先生は格別に小さな音で伴奏を弾いてくださるのです。なぜなら私は人前で歌うことが出来なかったからです。口を開いても歌声が私の口から飛び出してくることがありませんでした。「いつか歌えるようになるわよ。」と先生はやさしく声を掛けてくださるのですが、そのころの私には歌うということがどういうことなのかがよくわからなかったのです。

そんな私が歌うことに目覚めたのは、大人になってからのコーラス。あら、人と一緒に歌うと、楽しいじゃないの。何だか声も出る!歌の楽しさを初めて知った私は、後にとうとう音大にまで通うことになったのです。

大勢の前で歌わなければならないということは音大時代に叩き込まれたと思っています。音大の演習の授業では、教室の前に出て一人づつ担当の歌を歌い、皆さんの前で先生から注意をいただきます。私は後にも先にもこの明るい教室で聴衆の顔を見ながら歌うということが一番骨が折れる、と思うのです。
ですが演奏するとなればたとえそれが自分の好まない歌であっても、歌の高さが自分に合っていなくても前に出て歌わなければなりません。しかも、誰もその日の自分の喉の調子を言い訳などしやしません。私はそんな若い生徒さんの姿を見て、そうか、歌わなければならない時、歌わないという選択はないのだ、というこの一見当たり前なことのようであり私にとっては当たり前でなかったことを知り頭をかなづちで殴られたような気持ちがしたものでした・・・。

リサイタルでは今までに教わった全ての先生方の教え、大学で教わったこと全てを駆使して歌い切った!!という感覚がありました。。MC含め1時間50分。最後まで歌い終わったときの気持ちはここに書き表すことが難しいくらいにこの世的な事象から離れていました。ですが皆さんに正しくお伝えするため、又自身の記録の為に敢えて書き表すとしたら、もうその場で息絶えても良い!!とまで思った、という気持ちでしょうか・・。

聴きにいらしてくださった方々、いらっしゃれなかった方々、準備に携わってくださった方々、伴奏者、先生方、そして家族へ、感謝の念を込め、この長いつぶやきを終えたいと思います。ありがとう、ありがとう、もう一つ、ありがとう!